幼稚園や保育園で「いすとりゲーム」をやっているのを見かけるが、このゲームがどのような子ども(人間)を育てるのかを考えると、どうしても納得がいかない。どなたか、納得できる解説をしてくださる方がいるといいなと思って書いてみる。
ご存知のように、周りを歩く子どもの数より若干少ない数の椅子が置かれている。その周りを音楽に合わせて歩く子どもたちは、音楽が止まると同時に、椅子に座ろうと我先に突進する。
人を押しのけ、自分が座れたら椅子をしっかりと掴んで離すまいとする子ども。座れなかった子どもは泣き出す子どももいるが、残された行動は「別の場所で座って待つ」ことしかない。待っている子は、「誰が最後まで残るだろうか」と同じくらい強く、「(負けた)自分の仲間に誰がなるか」を待ち望んでいる姿がある。
そして、椅子は次第に少なくなり、最後は一つの椅子を2~3人が虎視眈々とねらいながら、椅子の方に早く行ける体勢のまま周囲を歩く。
サラリーマンの出世の道筋を「椅子取りゲーム」と称されることがあるが、まさに昇進するにつれてだんだんその椅子に座れる人は少なくなり、淘汰される。それを幼児期から体験させるためのものなのだろうか?
この中で子どもの心に生じる想いは「我先に人を押しのけても奪おうとする」「自分だけが座れたらOK。人に譲ることなど考えない」「一回座れなかったらやり直しはきかない」「どんどん選択肢は狭まり、競争は激しくなる」「音楽に耳を傾けることや周りを言って間隔を保って歩くことは、競争のタイミングを知らせるだけであって重要ではない」「落ちこぼれ仲間が増えると安心する」など、私からみると、日常の保育で先生方が大切に育てようとしている心情と相容れないことが多いのである。
にもかかわらず、いすとりゲームが多くの園で日常的に遊ばれるゲームとして健在であるとすれば、その先生はそのゲームの中にどのような教育的効果を見いだしているのだろう?
「日常ではできないことだからこそ、ゲームの中で人を押しのけることが許される遊びが必要なのでは?」とある若い保育者が言ってくれた。思いきって言ってくれたことに感謝。
「一部のゲーム推進研究者が言うように、ゲーム機の中で人を殺すことが、人を殺したいという欲求をゲームの中で開放して社会を安全にすることに繋がるのか?それとも、現実に起こり始めているように人を殺すことに抵抗がなくなるのか?」という問題も社会には大きく存在している。それも含めて考えてみたい。