正月休みは、ゆっくりと時代小説に浸った。
いつもの出張旅の友:佐伯泰英に始まり、葉室麟「霖雨」、安倍龍太郎「葉隠物語」。とくに日田の私塾:咸宜園の祖である広瀬淡窓を描いた「霖雨」は、教育者のあるべき姿を深く教えられた気がする。
これまで時代小説の背景にある士農工商という身分について、あまり考えたことがなかったが、今回「霖雨」を読みながら、ふと「士農工商」というのは身分差別ではなく、社会のあるべき姿を言ったものなのではないかという思いが浮かんだ。
士:武士道といわれる人の道。倫理観、思想が最も重要であるということは、上に立つというより、「根底に流れるべきは人の道」であるということではないか?
農:生命を育て、健康を守る。士の想いに継いで重要になるのが生命であり生活である。朝日と共に起き、夕暮れと共に活動を終える健康さが日常を支えることに気づく。
工:何かを作ること、何かができることは、倫理観や生命生活があってこそ正しい。できたものは「結果」であって、その想いや命の輝きを基盤としたものでなければ、社会を滅ぼしかねないだろう。(原子力しかり、ITしかり・・)
商:経済であり流通。一見派手であるが、これは士農工・・人の道、命のかがやき、人が身体を使って何かすること、の上に乗ってしかあり得ない表層のものである。
そう考えるとむしろ、士が一番上に立って威張るべきではなく、まさに一番下で社会の行くべき道を常に指し示す役割だったのではなかろうか?
そして、今の日本は、士(倫理)・農(生命)・工(技術)をないがしろにし、商のみで成り立っているようにみえる。
相変わらず数多い時代劇ファンは、そのことをどう思うのだろうか?