午前中は、未来塾主催の震災後支援報告会。
佐藤先生の震災後支援の話では、大川小学校の保護者のことはもとより、学習支援が子どもたちにとっては、自信と安心を与える大きな手段となることを感じる。
子どもは宝物…。本当に復興するべきは宝物である子どもとの関係、子どもの居場所。今、復興のビジョンの中に宝物があるか?子どもが安心して育つことができなければ、これからの町はない。
午前中の報告会を終えて、大川小学校に向かう。
学校直前の土手まで来ると当然の大渋滞。500mほどを20分ほどかけて到着。2時15分着。地震の時刻まであと30分。関係者の間にカメラを構えたマスコミが目立つ。
今頃の時間はまだ日常だったんだ、何も知らずに遊んだりおしゃべりをしたり…、と思うと、地震がいかに他の災害と違うものかが迫ってくる。台風や大雨なら、数日前から予測できるが、地震は逃げられない。しかし、その後の津波は逃げられたはず…。
2時46分消防団のサイレンが鳴り、黙祷。
この瞬間から、さっきまでと全く違う日が生じたのだと思うと足が震える。
黙祷の後、人々は立ち去ってゆき、残るはおそらく遺族のみ。
遺族の方にとっては、黙祷は2時46分ではない。3時37分、津波が子どもたちを襲った時間まで、まだ間がある。この時間は生きていたのだ。外に出て、並ばされて、点呼を受けて、そして、待たされた。何を?死を。保護者の方とお話ししながらゆっくりと校舎を廻る。まだ30分。今から逃げても間に合う時間だという事実が悔しい。
校庭から少し橋寄り。山の斜面が一番急になっているあたりで、子どもたちは津波の挟み撃ちに遭った。
「このあたりに、瓦礫や泥と一緒に遺体がたくさん重なっていたんです。」と教えられ、その位置から土手を見ると、ずいぶん高い。あそこから津波があふれてきたんだと思うと「さぞかし怖かっただろう」と足がすくむ。
3時37分に再度黙祷を捧げ、もう一度、子どもたちが折り重なっていたという斜面に手を合わせて帰路につく。これで今回のスケジュールはすべて終わり。帰路につく。